COLLAEGIUM

skelton

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embrem

embrem

skelton

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コレジウムについて

1. collage(コラージュ)+ -ium(~に関するもの、~のための場所)

2. collegium(後述)

1と2を合体させて、collaegium(コレジウム)と申します。



【collage】
・コラージュ技法画面に新聞紙の切り抜きや写真などを貼りつけ、特殊な効果をねらう技法。また、その作品。

【collegium】
・〔古代ローマの〕同業組合や友愛会などの組織で、3人以上によって構成された。
・〔中世の大学内の〕学寮、寄宿舎



*******

「コラージュ」という考え方が好きです。

本来なら出会うはずのない、

各々異なる文脈を持ったモノたちが、無理なく共存する。

そこでは、魚の隣にキリンが居たってまったく問題ない。


コラージュ作品と同じように、

いろんなバックグラウンドを持つ人たちが気軽に集まって、

新たな化学反応が生まれる場をつくりたい。

足し算だけじゃなく、掛け算になる瞬間がおもしろい。



「学生寮(collegium)のように気軽に集える、
コラージュ(collage)のような場をつくりたい」

という思いで、このたび、お店を作ることにしました。


そしてその記録として、このブログをしたためることにしました。


どうぞごゆるりと、お楽しみください。


店主



「あなたのわすれもの、
おあずかりしてます

日々の生活に追われて、
いつのまにか忘れてしまうことがあります。

自分は何者なのか。
何をするためにここにいるのか。
自分が本当に好きなものって、なんだろう。
何のために、日々頑張っていたんだっけ。

そういう事柄について、深く深く掘り下げていくためには、
まとまった時間と、まっさらな心になれる場所が必要です。

子供のころ好きだったもの、
時間を忘れて没頭していたこと。
いつのまにか忘れてしまっていたなつかしい時間、
なつかしいひとたち。

忘れてしまったようでも、
彼らはちゃんと、あなたの心の中にいます。
「本当はさして大切でもないのに、声だけが大きい」ものに圧倒されて
脇に追いやられてしまっているだけです。

少しのきっかけで、彼らはひょっこり顔を出します。
たとえば、素材からおだしをとったお味噌汁を飲んだとき。
ふと窓の外を見たら、この世のものとも思えないくらいきれいな夕焼けが広がっていたとき。
にわか雨に降られて濡れそぼった身体で帰宅して、温かいお風呂に浸かったとき。
心地よい風に吹かれながら、自然の中を散歩しているとき。

日常生活における「わすれもの」が
「ほら、こんなところにいたよ」とひょっこり顔を出して
あなたと再会できるような、
そんな場所を作りたいと思っています。
世界をつくるということ (3)

さて、高校生のころは実家住まいだった私も、
大学に進学後、晴れて一人暮らしを開始しました。

いままでの私にとって家具やインテリアとは
「もともと家にあるもの」であり、
新たに購入するという概念がありませんでした。
ですから、「欲しい家具を自分で選んで買って良い」
ということに大変感動すると同時に、
それまでは与えられたものを与えられたまま、
疑問なく使うことが当たり前だったことに気づき、
そのことに心底落胆しました。

これは生き方そのものにも当てはまりました。
今まで親や世間の言う通り、親や世間の意向に沿うように、
まったく疑問なくレールの上を歩んできてしまった。
生きづらさを抱えながらも、生きづらさの理由を
考えてみようとはしなかった。
自分で考えることを放棄していたのです。
「一人暮らしをする」ということは、
親元を離れ、自分の生活、ひいては人生を、
自分で作り替えていくことに似ていました。


こうして一人暮らしを始めた部屋で、
生まれて初めてパーティの装飾をしました。
大学の友人を招いて、
部屋を「ホーンテッドマンション」にみたててハロウィンパーティをしたり、
「ホームアローン」に出てくるケビンのおうちにみたててクリスマスパーティをしたり。
自分の部屋が、いつもの生活空間から
映画の中の世界へと変わっていく瞬間を目の当たりにし、
そのワクワク感に虜になりました。

それ以後は、ハロウィンやクリスマスのように
世間に押し付けられたコンセプトだけでなく、
自分で考えたコンセプトに基づいて、部屋を装飾することを始めました。

こうして、最初の記事「世界をつくるということ」(1)に書いたような
小説や絵画をモチーフとした空間、
ひいては、「 自分の生きたい世界 」をつくっていくことへの挑戦が始まりました。


実家のロフトベッド下のスペースは、言わば私の逃避場所。
灰色の日常を覆い隠して見えなくしてしまう、消極的な対処法でした。
対して、一人暮らしのマンションでは、
あたらしい、美しい日常を作ろうという積極的な対処法が生まれました。



自分の理想の世界は、自分の手で作れる。
この気づきは私にとってかなり重要なものとなりました。
与えられたものを与えられたまま、とくに疑問を抱くこともなく使い、
生まれ落ちた世界から出ようともしなかった。
ただ日々をこなしていただけの灰色の人生から抜け出して、
自分の人生を自分で生み出していくということ。


私は自分の店で、自分自身の理想の世界をお見せすると同時に、
みなさんにも、いつもの日常を抜け出して、
ちょっと変わった世界を体験してほしいと思っています。
そのためのアイデアならたくさんあります。
私のように、現実世界に生きづらさを感じていて、
そんな灰色の日常にもなんだか慣れてしまって、このままでいいやなんて
諦めかけてしまっているあなたにこそ、
見て、触れて、体験してほしい。
そのための「場」を、つくっていこうと思います。
世界をつくるということ (2)

さて、高校生の私は、まだ実家住まいでした。
割り当てられていた自分の部屋は、6畳の洋間。
教育熱心な両親の下に育ったので、
私の部屋の半分以上は、大きな勉強机と、
参考書や問題集がぎっしり詰まった本棚で埋め尽くされていました。
そして、勉強机のほかには、ロフトベッドが一つ。
それが、私の部屋にあったすべてでした。

面白くも美しくもない現実世界に嫌気がさし、
自分で自分の生きる世界を作ることを決めた私は、
唯一勉強道具(=現実)によって侵されていない
ロフトベッドの下に、
もうひとつの「自分の部屋」をつくることにしました。

もちろんロフトベッドの下ですから、
スペースは1畳ほど。
それだけの限られたスペースだけれど、
いや限られたスペースだからこそ、
自分が本当に好きだと思えるものだけで
その空間を彩ろうと思いました。

ロフトベッドから下に向けて毛布を垂らし、
ロフトベッド下のスペースと、部屋の残りの部分とを
カーテンのように区切りました。
そのカーテンの内側に、テーブルランプとCDプレイヤー、
本やCD、大好きなバンドのポスター、ポストカード、
そしてちょっとしたおやつとドリンクを持ち込んで。
テーブルランプの光にぼんやり照らされながら、
好きな音楽に酔いしれて。
ただそこにいるだけで幸せだったのを覚えています。

当時、なけなしのお小遣いはほとんどCDに費やしていましたので、
ちょっとしたインテリア小物ですら自分では買えませんでした。
でも、好きなものだけをかき集めて作ったそこは、
まちがいなく私の理想の世界でした。

今思うと、これが私の世界観づくりの原点のような気がします。

次回に続きます。

世界をつくるということ (1)



世界をつくる。

なかなか大仰なタイトルになってしまいました。


前回の記事で、
「空間を装飾して、世界観を作り上げたい」
ということを述べました。

では、作り出したい世界観とは何か。
今日はそのあたりのお話をしたいと思います。

***

私は幼少期から今に至るまでずっと、本の虫です。
いままでたくさん読んだ本の中でも、
異世界を旅する小説が特に好きでした。

いつもの日常を送っていたら、ふいに
異世界へ迷い込んでしまう。
いつもの曲がり角を曲がったはずなのに、
気付いたら知らない店ばかりの通りに出ていた。

そんな、
「なんてことない日常に、非日常がふと食い込んでくる」
お話を読みふけっては、
自分の日常にも、そんな異世界への入り口が
ぱっくりと現れないだろうかと、
日々考えていました。


あるいは、絵画の世界。
ジョルジョ・デ・キリコの「街の神秘と憂鬱」や
マグリットの「光の帝国」、
はたまたハンマースホイや
アンドリュー・ワイエスの描く空気感に惹かれては、
「この絵画の世界に入りたい!」と憧れていました。

ですが、小説はいつか読み終わってしまいます。
絵画をぺたぺた触っても、そこから先へ体が進むことはありません。
小説が終わったあとも、私の人生は続いていくのです。
絵画のようには美しくない、灰色の日常を送るのです。

現実世界に生きづらさを感じていた私は、
「ここではないどこか」へと行きたがるのをやめ、
その代わりに
自分が住みたい世界を自分の部屋の中に作ることにしました。

私が住みたい世界。
小説のようにドラマチックで、
絵画みたいに美しい世界。

現実の世界が美しくないのならせめて、
私の自由にできる場所は
私の好きな世界に変えてしまおう。

こう考えた私が、
自分の部屋に手を加え始めたのは高校生のときでした。
自分の頭の中にしかなかった世界を、
現実世界の中に作り上げていく作業が始まりました。

次回に続きます。

「好きな仕事」の売り方

前回の記事(リンク)で、
カフェという名の肩書を名乗り、
その上で新しいことをしたい、ということを述べました。

ここで、少し昔の話に遡って、
私が店を作ろうと思ったきっかけについて語りたいと思います。

以前は「私はインテリアが好き」だと思っていました。
それでインテリアショップでアルバイトしてみたり、
インテリアコーディネーターの勉強をしてみたりしましたが、
住宅のインテリアにおいて重視される「動線確保」や「使いやすさ」などに
ほとんど興味がないことに気付きました。
私にとって重要なのは
「その空間にいて、わくわくできること」。

たとえば、映画のセットやロケ地だったり、
ロンドンに実際にある「ホームズの家」とか、
ディスニーランドにある「ミッキーの家」とか。

そんな、物語のある世界観に強く惹かれます。


なので、
「空間を装飾して、世界観を作り上げることが好き」
と言い換えることにしました。
今は自宅であれこれ作って楽しんでいるだけだけれど、
この空間をもっといろんな人に見てもらいたい。
この空間に入った人が、ここで何を感じ、何をするのか見てみたい。

だから、自分の作った空間を「作品」として展示したい、
そして、その作品を展示する場を作りたいと考えました。

インテリアショップに行けば、商品を売るためのディスプレイはされているけれど、
そういう「売るためのディスプレイ」ではなく「見て楽しむための作品」。

イメージとして、例えば水族館。
水族館は、そこにいる魚を食べさせる(例えば寿司屋)わけでもなければ、
売る(例えばペットショップ)わけでもない。
寿司屋にも生け簀があったりしますし、ペットショップにも水槽はあります。
でも、それはあくまで
「売り物を売るために展示している」だけです。

対して水族館は、
見る人を楽しませつつ、魚たちについて知ってもらうことが目的ですから、
天井まで全てアクリル面になっている大迫力の水槽があったり、
魚の習性を利用したパフォーマンスがあったりします。

「モノ消費とコト消費」などと言われたりしますが、まさに。
商材とされているものがまるで違います。

そしてここもポイントなのですが、水族館に行く人たちって、
必ずしも魚好きに限らない。
雨の日のデートや家族で行くレジャースポットとして市民権を得ています。
だからインテリアやディスプレイに興味がない人でも、
気軽に触れて、気軽に使ってもらえる場があっても良いのではないでしょうか?
そういう思いがあって、
「空間という名の世界観を展示する店を作りたい」
という動機に繋がりました。
そして、いきなり「世界観の展示」では入りにくいでしょうから、
看板として「カフェ」の肩書を借りることにしたのでした。

なぜ、喫茶店なのか (3)


前回の記事(リンク)で、
「今の世の中にある形態を入り口として、今の世の中にない形態へ入ってきてもらう」
ということを書きました。

そして、そういった新しい切り口の業態を作るからこそ、
入り口は広く開けておく必要があります。

そうすると、私の作る店は「カフェ」になりそうなのです。

「カフェ」という言葉は、今の日本ではかなり広い意味で使われ、
かつ、かなり好意的なイメージを持たれている言葉だと思います。
従来のカフェは、いわゆる純喫茶と言われるような、
上質なコーヒーの提供をウリにした店でした。
しかし、今では
猫カフェをはじめとした動物と触れ合えるカフェや、
漫画喫茶、ネットカフェ、メイドカフェなど、
カフェの亜種は枚挙にいとまがありません。
それらの店舗は、もはや主体となるサービスが飲食物の提供ではなく、
動物やメイドさんやインターネットのある(いる)「場」の提供へと
すりかわっています。

そこには、「名乗ればカフェになれてしまう」ような自由さがありますし、
同時に、「カフェ」と名乗りさえすれば、世間からの好意的なイメージごと得られる可能性もあります。
つまり、入り口を広くするのには恰好の肩書きだと思われます。


ということで、3回にわたり、
「なぜ喫茶店という業態をとろうとしているか」を述べてきました。
ここはすなわち入り口です。
次回からは、入り口を入った先に何を作るか、
のお話をしたいと思います。
なぜ、喫茶店なのか (2)

前回の記事(リンク)で、
  1. 常にそこにあり、目的がなくとも足を運べる
  2. 集まった人がコミュニケーションできる
  3. 非日常を感じられ、主人公になれる場所である
この3点を満足する場を作りたいと述べました。

結論から言ってしまうと、これらすべてを満たす場は、
今のところ私の身近には存在しません。
無いならば、作りましょう。
ただ、場所づくりは一人ではできません。
色々な人と、目指すビジョンを共有する必要があります。
しかし、今までにないものを作り出す場合、
見本がないので、イメージの共有がまず困難です。

私が店を持ちたいと思うきっかけのひとつになった
「代官山オトナTSUTAYA計画」という大変面白い本(Amazonリンク)があります。
TSUTAYAで有名なCCC(カルチュア・コンビニエンス・クラブ)社長の
増田宗昭さんによる本で、全ページに付箋を貼りたいくらい大好きな本なのですが、
その本から「新しい店をかたちにすること」に関連する部分を引用します。

「TSUTAYAを創業した1983年から現在まで、私はTSUTAYAの商材が単にCDやDVDや書籍だと思ったことは一度もない。私はTSUTAYAで売っているものは"ライフスタイル"だと思っている。(中略)人は映画に登場する人物のスタイルに憧れ、ロックの歌詞に表現された世界観に共鳴し、小説の文章にものの考え方や姿勢を学んだ。(中略)私はレコードやビデオや書籍というモノではなく、そうしたライフスタイルを発見する機会や場を提供したいと考えた。それがTSUTAYAの出発点であったのだ。」

「私はレコードやビデオや書籍を"パッケージ"と呼び、そのすべてを扱う"マルチ・パッケージ・ストア"としてTSUTAYAを展開させることにこだわったが、それもこうした、"私が提供するのはあくまでもライフスタイルなのだ"という意識のためである。というのも、TSUTAYAが誕生するまで、音楽はレコード店、映画はビデオ店、書籍は書店と、ソフトを扱う店ははっきりと分かれており、その垣根が超えられることはなかった。(中略)しかしライフスタイルそのものを売りたいとする私からすれば、そうした店舗形態のどのひとつを選んでも、それでは不十分なのである。この3種類がひとつの空間で選べることで、初めて意味が生まれる。」

しかし、

「私がある企画を考えつき、"この企画買いませんか?儲かりますよ"と企画書1枚を持って売り歩いても、まず誰もそれを買おうとは思うまい。その企画が売り込んだ相手の理解を超えるものなら、相手は理解できないわけだから、絶対にそれを"面白い"とは思わないし、逆に相手の理解の範囲内にあるものなら、それは私が考えるよりも先に商品化されているだろうからだ。だから私には、"私の考える企画は、例えばこうなりますよ"という、見本となる商品がどうしても必要だったのだ。それでTSUTAYAを始めた。そしてあのマルチ・パッケージ・ストアが全国に広がるに及んで、今では私の話に多くの人が耳を傾けてくれるようになったのだ。」


つまり増田さんは、
「扱う商品はあくまでもライフスタイルである」
との思いを持ち続けながらも、
最初につくった店の名に「書店」と冠すことで、
まずは「従来の書店をイメージして訪れる顧客」をつかみ、
そのまま新業態へ引き込んだわけですね。
そしてその業態が、顧客の求めていたものと一致したから、
TSUTAYAの店舗は全国に広がっていった。


なお、増田さんは前述の本の中で、最初の店に「書店」とつけた理由についても語っています。

「当時、ビデオを扱う店というのはアダルト系のイメージが強く、女性客には敬遠されがちな存在だった。それで私は店名に"書店"とつけることにしたのだ。(中略)今にして思えば、女性客を取り込むためにこの名を考えたことも、私なりのひとつのリコメンデーションだった。リコメンドの本質とは、相手の理解の領域の外にある企画を、その人の領域の中にある言葉に置き換えることだと私は考えている。書籍・ビデオ・レコードを扱う店に"書店"とつけることで、私はその考えを実践してみたのだ。」
「当時から私は、書籍と映画と音楽のソフトを三位一体で扱う"マルチ・パッケージ・ストア"という業態にこだわりを持っていた。しかし、"ビデオもレコードもメディアなのだから、本質的には本と一緒でしょう"と私が言っても、なかなか理解されなかった。そこで実際にそういう店を造り、"書店"の名を冠したのだ。"蔦屋書店"とは、こうした私なりの翻訳作業、すなわちリコメンド作業の第一歩だったといっていいと思う。」

「書店」と冠すことで入り口を広げた、ということですね。
入り口が狭いと、入ってきてくれるお客さんも少なくなってしまいますが、
入り口は広く開けておくことで、まずは入ってきてもらう。
話をきいてもらうのはそれからだ、という感じですね。

ここでもし増田さんが、「書店」ではなく
いきなり「マルチパッケージストア」という看板を掲げていたら、
ひょっとしたら、いまのTSUTAYAの成功はないかもしれません。
どんなに良いものを作っても、見てもらえなければ意味がありませんから。



入り口は広く。奥は深く。
このお話を参考にしつつ、私の作りたい「場」の実現方法について
考えていきたいと思います。


次回「なぜ、喫茶店なのか (3)」乞うご期待

なぜ、喫茶店なのか (1)

前回の記事(リンク)で、
「モノやサービスを売りたいのではなく、場を作りたい」
というお話をしました。

では、私が作りたい「場」とは、具体的にどういった場所でしょうか。
考えてみました。

  1. 常にそこにあり、目的がなくとも足を運べる
  2. 集まった人がコミュニケーションできる
  3. 非日常を感じられ、主人公になれる場所である

各項目について、具体的に書いていきます。




①常にそこにあり、目的がなくとも足を運べる

前回の記事でも書きましたが、
私は「部室」のような場所が欲しいと常々思っていました。
いつ来てもよくて、いつまででもいられる場所。
であれば、それは期間限定で存在する場ではなく
「いつ来ても、そこに在ってくれる」場であること、
が肝要だと思います。

そして目的がなくともそこにいられることで、
「いつまででもいられる」が可能になるのだと思います。
むしろ、そこに行くこと、そこにいること、
そのものが目的になるような。

②集まった人がコミュニケーションできる

せっかくの共有の場ですから、
コミュニケーションがとれることは大切だと思います。
ここでいう「コミュニケーション」とは、
なにもいきなりディスカッションを始めるとか、
そういうことだけではありません。

たとえば自分のいる会社に、
生き方も考え方も憧れる、
すてきな先輩がいたらどうでしょう。
なんだか自分もピシッと背中が伸びませんか?

あるいは、近所の喫茶店でたまに会うおばあちゃん。
直接言葉を交わしたことはないけれど、
いつも上品に着物を着こなし、店員さんとにこやかに接している。
なんだか見ているだけでほっこりして、優しい気持ちになれませんか?

同じ空間に同居していることにより、
言葉だけではないコミュニケーションが生まれます。
お互いに影響され、影響を及ぼし合う。
そんな拠点となる場でありたいと思います。


③非日常を感じられ、主人公になれる場所である

自分の人生の主人公は、自分しかいません!
でも、忙しい日常に追われていたり、
会社の上司やお客さんの顔色ばかり伺っていて
気付けば自分の気持ちが後回し、なんてことありませんか?
いつのまにか、誰かの思惑どおりに動かされていませんか?

もし、日常でそのように感じているなら、
その「日常」から1歩外に出ることで、
本来の自分を取り戻してほしい。

よく「自分探しの旅」などと言いますが、
「旅に出る=自分のことがわかる」というより、
旅に限らず
「日常から1歩外に出る=自分のことがわかる」
のではないでしょうか。

日常から1歩外に出て、自分を見つめる。自分と向き合う。

旅に出るほどのお金はないし、
数日休みをとるのも難しい。
でも、今日は午前中は予定が入っていない。
財布を覗くと、1000円入っている。

そんなときに来てもらえる場になりたいなと思います。



では、①~③を満足する場とは、どういう場所なのでしょうか。


次回「なぜ、喫茶店なのか(2)」乞うご期待
どんな店をつくりたいか


「店をつくりたい」と言っておりますが、
正確に言うと、モノやサービスを売りたいのではなく、
「場」を作りたい
という思いが強いです。


学生時代、サークルに所属していたのですが、
部室がなく、メンバーに会えるのは隔週末のミーティングだけ。
そのミーティングも、貸会議室を借りて行っていたので、
指定の時間になれば解散。
ミーティングで仲良くなった人とは個人的に遊んだりしますが、
せっかくコミュニティに属しているのに、結局、
関わる人は固定メンバー。
所属しているのに、根無し草のような感覚がありました。

あのときもし、部室があったら。
特に用事はなくても、ただ「好きなだけそこにいられる」場所があったら。
もっと多くのメンバーとコミュニケーションがとれたと思いますし、
もっと深い付き合いができたのではないかと思います。


「場」には大きな力があると思います。

たとえばガートルード・スタインや澁澤龍彦の芸術・文学サロン、
はたまた原宿にあった伝説の喫茶店「レオン」のような。

そこにいるだけで何か刺激をうけて、
言葉だけでないコミュニケーションが生まれて。
「何かを始めたいけど、何をしたら良いかわからない」
そんな人も、ただそこにいるだけで、言外に意思表示ができたり。

そんな「場」をつくりたいと思っています。

そんな思いと、かねてから私の中にあった
「空間を装飾して世界観を構築するのが好き!」という思いが
合体して生まれたのが、collaegiumの構想です。


「何もない屋さん」「何でもない屋さん」。
何かではある、でも既存の何にも似ていない。
何屋でもないけど、だからこそ、何でもできる店。

そんな店をつくりたいです。



次回「なぜ、喫茶店なのか」乞うご期待